前回の記事で、モノづくりとは
「それによって人間が幸せになることを期待して、ものを作ること」
と言えるのではないかと書いた。
人間が日々行う、大小取り混ぜたあらゆる活動は全て、「幸せになることを期待して行う」と言えるだろう。朝起きて、顔を洗う、服を着る、ご飯を食べる、仕事に行く。それら全て、それによって幸せになることを期待して行っているはずだ。
それは、人間がモノづくりをする理由にも当てはまる。旧石器時代から絶えず続けられてきた「モノづくり」、その原動力は、「今より少しでも幸せになれることへの期待」であったと言ってよいのではないか。
モノづくりとは何なのか。システム思考で考えると、そのイメージが見えてくるように思う。
社会も「システム」
「システム」は、次のように定義される。
相互に作用し合う要素の集合
※「一般システム理論」, ルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィ著, 長野敬, 太田邦昌訳, P.35
また、INCOSEによる定義は次のようになっている。
定義された目的を成し遂げるための、相互に作用する要素を組み合わせたもの
両者の違いは、「目的」の有無である。人間が意図して作るシステムは、目的があるはずだから、INCOSEの定義が馴染む。一方、前者の定義によれば、地球上の自然環境や、太陽系なども「システム」に含まれる。
我々が暮らす「社会」も、システムである。
誰かが明確な目的を持って全体を設計し、作ったわけではないかもしれないが、「相互に作用し合う要素の集合」である。
例えば、鉄道やバスは大量の人の効率的な移動を可能にする。それによって、住宅地や商業地、オフィス街など、機能の分散が可能になり、特徴づけられた地域が生まれた。それらの地域の特性に応じて、飲食や物品、サービスの需要が生まれ、それらの需要を満たす産業が生まれた。さらに、それらの産業(飲食店、小売店など)が必要とする資材は運送業者が運搬し、その運送業者は全国に敷き詰められた道路網を利用する。また、これらの各要素の活動で必要となるエネルギーの供給網や、価値交換を仲介する金融網も存在する。
これは、「社会」のほんの一部の小さな断片だが、これだけでも実に多くの要素が複雑に絡み合っていることが分かる。
このような多くの要素の相互作用で成り立つ「社会」というシステムにおいて、日々、様々な出来事が生じる。それらは、人々にとって喜ばしいことであったり、そうでなかったりする。いずれにしても、それらの出来事は、システムの創発性として生じると見ることができる。
社会における「モノづくり」の意味
上に書いたような「様々な要素が複雑に絡み合って成立する社会」のイメージをごく単純化した抽象的な絵にしてみると、次のように表せそうだ。
(丸は社会を構成する要素、丸から出る矢印、丸に入る矢印は、それぞれ要素が与える作用、受ける作用を表し、破線は要素間の作用を表す。)
この絵のイメージにおいて、「モノづくり」とは、次の絵のように、新たな要素と作用を加えることに相当するだろう。
(赤い丸が、モノづくりによって新たに加えられた要素を表す。)
このように、モノづくりとは、「社会というシステムにおいて新たな要素と相互作用を加えること」と見ることができる。
当然ながら、モノづくりによって加わる相互作用によって、「人間が幸せになる」ような性質が創発されることを期待する。そのような相互作用が加わることを狙ってモノをつくる。
しかしながら、厄介なのは、「狙った相互作用」以外の相互作用も(勝手に)発生し得ることである。思いもよらない相互作用により、思いもよらない「システムの性質」が創発される。それはシステムとしては単に自然な現象であって、その性質が人間にとって嬉しいものかそうでないかは、システムにとっては関知しないことだろう。
しかし、その「思いもよらないシステムの性質」が人間に損失を与えるものであった場合は、それは「想定外の事故」と呼ばれる。
人間が幸せになることを期待して行ったモノづくりが、人間の不幸につながる損失を生じさせることもある、ということだ。
例えば、「ウーバー・イーツ」が数年前に登場した。このサービスによって、人々は、住宅地に居ながらにして、商業地にしかない飲食店のメニューを楽しむことができるようになった。これは「狙った効果(システムの性質)」であり、それが生まれるように相互作用が設計された。配達員、飲食店、消費者のいずれもが、相互の連携を深める方向に行動を促されるようにできている。とても巧みな相互作用の設計だと思う。
しかし、ウーバー・イーツの登場は、ほかの(狙っていなかった)相互作用も生じさせており、人間にとって不幸な事象につながってしまっている。
道路上に「配達員」が増え、それらの配達員は比較的高速度で自転車を走らせる。これは、配達員に与えられたインセンティブによる作用である。現実に、雨の中、横断歩道を渡っていた人を配達員の自転車がはね、死亡させてしまうという痛ましい事故が起きた。(参考:自転車で死亡事故、ウーバー配達員に有罪判決 東京地裁:朝日新聞デジタル (asahi.com))
雨の日は、注文が増える一方、配達員が減る傾向があるため、配達員には追加報酬が支払われる仕組みがあったそうだ。これは、消費者と配達員だけを見れば、賢い相互作用の設計のように見える。しかし、一方で、見通しの悪い雨天の中、スピードを上げる自転車を増やす方向にも作用した。裁判では、「悪天候時などに支払われる追加報酬を得るために速度を上げた」との指摘があり、過失の重さを認める判決が出ている。
モノづくりとは何か、をあらためて考える
このように、モノづくりとは、社会に対して「ワクワクするような楽しい性質」を創り出すことである半面、思いもよらない負の性質を生み出し得ることでもある。エキサイティングなものであり、チャレンジングなものだと思う。
どのような作用を追加すると、どのような性質が創発されるのか。
それを考えることである。
モノづくりとは、システム思考をすることなのではないか。
上に書いた例では、社会をシステムとして捉えたが、「システム」は、スーパーマーケットの販売の仕組みであったり、企業内の組織連携であったりしてもよい。モノづくりは、そのシステムにおける「好い」創発性と、「困る」創発性を考えることなのではないか。
上に描いたような絵をイメージして行うこと、つまり、局所的に「見える範囲」だけを見るのではなく、できるだけ広く全体を俯瞰的に見ることが重要になる。
モノづくりを行う企業ではどうしているか
上に書いたことは、基本的に「際限がない作業」であり、方法論化が難しい。企業では普通、コストを事前に計算し、儲かる算段が得られた事業を行う。際限がない作業は敬遠される。
また、個人の経験や能力に依存したやり方は好まれない。「その人がいなくなったら事業を存続できない」というのでは困るから、属人性を排除しようとするのは当然である。
そこで、モノづくりの「標準化」が進められる。標準的なプロセスに従い、標準的なツールや環境を使ってモノづくりを行う。各工程で「リスクチェックリスト」に沿ってチェックし、決められたドキュメントを作成する。最後に「標準に従ってモノづくりを行ったか?」が審査される。
このような仕組みがあれば、誰でも一定の品質のモノづくりができる、ように思える。企業としては都合が良い。
しかし、モノづくりを行う社員の立場からはどうだろうか?
「誰でも一定のモノづくりができるような標準を用意しました。アナタでもできますよ。」と言われているようなものである。ワクワクする気持ちが起きるだろうか?
「言われた通り、標準に沿って作業すれば良いのだな」という保守的なマインドにならないだろうか。
モノづくりとは、上に書いたように、ワクワクを創るものであり、ドキドキもするものであるはずだ。刺激的でチャレンジングなものであり、そこに面白さがあるのではないか。「標準」というカプセル化が、モノづくりの本質を覆い隠してしまうのではないかという危惧を、ちょっと感じる。